
[写真]松尾官平・第22代参議院議長、参議院ホームページから。
新生党結党に参画した9人の参議院議員の1人で、第22代参議院副議長だった松尾官平(まつお・かんぺい)先生が、2013年7月30日亡くなりました。昭和2年(1926年)生まれの86歳。こころよりご冥福をお祈りいたします。

[写真]新生党結党記者会見に参加する、松尾官平参議院議員(後列左端)、1993年6月23日。
松尾さんが参議院副議長を務めた時期は、1995年夏から1998年夏の3年間。参議院第2会派で新進党と公明の統一会派「平成会」の出身。
日本にとって激動の時期で、阪神大震災・地下鉄サリン事件が起き、村山内閣の対応が批判されたのに、なぜか投票率44%という現在まで最も冷めた第17回参院選の直後に議員在職わずか15年ながら副議長に選出されました。この選挙で、新進党は比例得票第1党になっており、大いに躍進が期待されました。とはいえ、議席数は、「自民党・自由国民会議」が111議席、平成会が68議席だったので、今とあまり変わらない状況です。
その後、橋本内閣に衣替えし、住専国会や山一・拓銀ショックを経験。ついには、新進党が解党され、翌年夏、副議長とともに議員を引退しました。勲一等瑞宝章。
自民党時代に中曽根内閣で沖縄開発政務次官、労働政務次官。参議院では、環境特別委員長もつとめました。
松尾官平さんは、青森県出身。盛岡高等農林学校農科卒、中央大学経済学部。家業の造り酒屋を従事し、県会議員を5期。このころの自民党県議出身の国会議員に造り酒屋が多かった理由は、戦前は酒税が国庫の最大の歳入だった時期があることと、現在でも酒税が毎月末申告、毎月納税ということで国政と身近な関係にあるからでしょう。松尾さんは、三戸町の教育委員、商工会長を経て、青森県の商工会連合会会長、養蚕農業協同組合連合会会長をつとめました。さらに、青森県出稼者団体連合会の会長をつとめておられ、「青森の父」のような存在だったのではないでしょうか。実際に、現役時代の松尾先生のリーフレットには、祖父、子、孫の三代の写真が載っていて、伝統的家族観にもとづく、頼れるイメージを感じました。
参議院副議長室のとなりに、議長応接室があります。国会中継の代表質問で、参・本会議場の向かって左側から総理ら閣僚が入ってくるシーンが年1、2回流れます。あれは議長応接室に控えており、国会内の大臣室とは、イチバン遠いところにあります。このため、総理ら全閣僚が議長応接室に入る代表質問のさいは、普段とは違う雑踏が生まれます。一方、副議長は通常は、一般の議員席に座りますから、副議長室から出てきて、テレビで見るときの手前側の出口から議場に入場します。
ある日の朝、橋本首相の番記者として、議長応接室に入った首相の近くにいると、参議院の衛視さんが大声で「そこ開けてください!」と私を怒鳴りながら歩いてきました。国会参観など参議院の衛視さんはたいていやさしいのですが、雑踏には衆と比べて慣れていない面もあり、思わず声を張り上げたようです。そして、その衛視さんはどうやら副議長を先導する役で少し緊張していたようで、曲がり角の向こうからあらわれた松尾副議長は、クルマを運転するまねをしながら、「そこにいると、カーブが曲がりにくいんだよ」とやさしく声をかけてくださいました。これは私をたしなめながらも、大声を出した衛視さんもたしなめたのでしょう。「造り酒屋、県出稼者団体連合会会長、大家族アピール、そしてやさしく叱る」。こういった先生は、今は全然いなくなってしまいました。古き良き自民党の薫りを受けつぐ新生党結党メンバーの松尾先生。これが私の「マイ・ファースト・青森」。その後青森出身の親戚が複数増えましたが、青森に悪い印象ないですね。リンゴの花を聞きながら、新幹線で青森へ!と思ったら大震災になってしまいました。
新生党結党参院議員9人のうち今も議席を有するのは北澤俊美さんただ一人になりました。衆院メンバーの前田武志さんも現職参院議員ですが、石井一先生は7月21日、落選してしまいました。
議会制度百年史の参議院議員要覧409ページには、松尾先生の著書として3冊載っています。
『県議6年』ーーこれは合計5期つとめた県議の2期目に書いた物でしょう。6年というのは、同じ造り酒屋出身の竹下先生が県議6年で国政に転出したことも念頭にあったのかもしれません。
『ヨーロッパフォトツアー』ーー洋行が少なかった時期に、青森の父が(おそらく)お得意の写真を交えて、地元の人にも欧州の薫りをとどけた著書だろうと思います。
そしてもう一冊。「セニョール官平南米を行く」ーーなんだこれ?「セニョール・カンペー」ということで漫才師のようですが、雪深い青森で尊敬される政治家は、底抜けの明るさも条件なんでしょう。今の知事さんをみてもそう思います。
偶然、昨日付のエントリーに松尾先生の名前を書いていましたが、そのときにはすでにお亡くなりになっていたことになります。
ご子息(喪主)のツイッター・フェイスブックによると、松尾先生は都内で亡くなりましたが、首相官邸から国会議事堂を通り、既に青森にお帰りになっているそうです。
セニョールカンペイ、アディオス(さようなら)。
【追記 2013年8月1日(木)午後8時半】
国立国会図書館で「セニヨール官平南米を行く」を読んできました。青森県議時代の、アメリカと南米大陸視察旅行の報告で、絵と文が上品にまとまったパンフレット風でした。その最後の一文に心打たれるものがありましたので、引用して追悼させていただきます。
クスコからマチュピチュへの列車の中でメキシコから来た女子大生のパーティーと知り合った。
陽気な彼女らは盛んに合唱し、我々にも歌えと言う。
津軽海峡冬景色の独唱でこたえたが、アンデスの山中で歌った気分は乙なものだった。
【追記おわり】
@kokkai_live 遅くなりましたがBlog記事を大変有難くそして懐かしく読ませて頂きました。先般忌み明けの法事も済みまして、少しばかり安堵しております。今後ともご活躍を楽しみにしております。ありがとうございました。松尾和彦
— 松尾和彦 (@matuhiko1963) 2013, 9月 28
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