石川知裕さん暁に逝く

[写真]1期目の解散直後に、民主党北海道連国会議員団で集まり、健康上の理由で勇退する金田誠一代議士(人影)と握手する石川知裕さん、右は同期の逢坂誠二・前立憲民主党代表代行、今から16年前の2009年7月21日、同党本部5階で、宮崎信行撮影。

 奇跡は起こりませんでした。

 石川知裕さんが大腸がんのため亡くなりました。残念です。配偶者は、石川かおり(石川香織衆議院議員

 追記しますが、陸山会事件というキーワードは西松建設事件ですから、その経緯をふまえてください。

 一学年205万人と競争の激しい団塊ジュニア3学年(1971年4月から1974年3月まで)の最後の学年の生まれで、衆議院議員在職年数では、小渕優子さんに続き、石川さんが第二位の時期がありました。

 ガソリン値下げ隊当時は、国土交通委員で、同期で同じ道連の逢坂誠二さんと協力しました。

 石川さんが若くして北海道11区で民主党公認で立候補できたのは、鉢呂吉雄・北海道連代表が主導した公募の結果、「地元出身で、最も秘書経験が長く、最も年齢が若い」というもっともな理由で合格しました。ですから、小沢一郎さんは関係なかったことになります。石川さんのお父さんが2度、町議経験も踏まえて町長選に立候補した際は、小沢さんは長期休暇の配慮をしていました。

 私、宮崎信行は幼児のころから体が弱かったのですが、自分を売り込んだり、多数派工作をしたりするのが苦手な中、知裕さんは早稲田大学鵬志会幹事長を8か月(任期1年)で退任。前任者も「自民・新生・さきがけ」3党をめぐる会内の混乱で辞任したため、異例の同級生の幹事長として私も両者の残任期間8か月をつとめることができ、羽田孜さんの大隈講堂での講演会で千数百人の前でスピーチできました。このご恩は一生忘れません。この際、後継幹事長を告げてもらった、早稲田大学の裏の江戸川橋に近いラーメン屋で、石川さんはカウンター越しにラーメンを受け取った際に後ろに転んでしまいました。ビラ配り活動の疲労があったと思いますが、「宮崎に体力で負けて残念だなあ」とのやっかみを口にしていました。私は、よく睡眠をとっていたと思うので、体力でなく生活の問題で、トイレで血を出しながら大腸がんの診察が遅れたことにも通じ残念です。

 石川さんが逮捕されたとき、私は小料理店で早稲田大学鵬志会幹事長と二人でいました。その後、会長の教授が辞めてしまうことになり、最大のピンチでしたが、その時間帯を見計らって現役幹事長に寄り添えていたことを私は誇りに思います。

 香織さんとの結婚の式にも行きましたが、知裕さんは、香織さんが「何さん」と聞いているのに、私は紹介したくなかったようです。

 一方、刑事捜査が始まった際に、「京大法学部卒で新聞記者10年経て弁護士開業数年の四谷の弁護士を紹介できる」と言った際に「考えておく」と返答されたんですが、その夜のネットニュースで、高校の先輩の弁護士らについてもらっていることが分かり、だったら、昼、決まっていると言えばいいのに、なぜそう答えないのか疑問でした。

 たまたま私が40歳の誕生日に、30人ほどの会合があり、終盤、石川さんに「ところで、大学院の入学試験を受けたから、きょうは東京にいると聞いた」と話を差し向けると、政治学研究科を受験し、仮にいけなければ公共政策研究科に行くとのことでした。「それで、何大学の大学院を受験したの」とたずねると、下を向いて「早稲田、早稲田」と語りました。ところが、翌週、法政大学大学院に合格したとネットニュースで見ました。

 また、私は東京生まれ、石川さんは北海道生まれなので、私はアメリカにあこがれ、石川さんは東京にあこがれていました。私は小学校1年生から英会話教室に通い、留学歴もあり、英語が堪能であることを、嫉妬を恐れ早稲田大学在学中は隠していました。石川さんはその後知ったようで、それがフィリピン5か月語学留学につながったようです。私たちの学年は、鵬志会、雄弁会、政友会幹事長が総勢6名いる学年で、そのうち2名は立憲民主党員の都議・県議です。台湾で友人の事業を副社長として展開するところを見に行き、石川夫妻はまぶしく見えたとしています。が、その人が帰国して今都議なので、代議士夫妻からまぶしく見えてもちょっと困るような気がします。みんな、代議士になりたくて、ここまで書いてきた人で代議士になれたのは、石川さんだけですから。私が新進党解党をして政権交代ある二大政党政治を遅らせた小沢一郎さんを許せないとぶちまけたら、石川さんは生活のために代議士をしているというあっけらかんとした返答でした。小沢さんと距離を取り切れなかったのは、疎遠になると、陸山会から勝山会に正当な手続きで政治献金50万円ほどが入るので、縁をたてなかったと思います。

 最後から2回前に話したのは、2014年10月の選挙のときの電話でした。これも内容は、石川さんと初出馬同期になる中山知意さん(現・大野知意横浜市議)はどうしているのかという電話で、東京で働いていると答えましたが、知意さんと私が東京で日常的にお互いの身の上の相談も含めて連絡をとりあい仲が良いことは、フェイスブックを見れば誰でもわかる状態で交友関係を持っていたので、もう少し違う切り口の会話もあったかと思います。要するに、海江田万里代表が落選しそうで、その後は、岡田克也代表代行が昇格しそうだから、選挙後もよろしくということが石川さんの言いたいことだったと思います。最後に会ったのは、学生時代の先輩後輩や国会議員ら共通の知人が何人もいる自民党議員の初入閣のお祝い会でした。この時は、大臣のビールグラスに瓶ビールが満たされていないとし、「おい、宮崎!」と大臣に聞こえる大声で指南されました。

 石川さんを慕っていた、竹内英明兵庫県議もなくなりました。ともに配偶者も知っているので、お子さん2人の今後も他人ですが、気がかりです。私の父の人生でも50代には多くの面識ある人物が若くして亡くなっていきました。私は体は弱いですが、彼ら二人の分まで長生きして、彼らの足跡を伝えていきたいと思います。

 心よりご冥福をお祈りいたします。 

関連記事

コメント

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (0)

  1. この記事へのコメントはありません。

CAPTCHA


アーカイブ

ページ上部へ戻る