【岡田克也】「向こう数年間の総理を選ぶ選挙」と自民党総裁選を評する、自民党離党・郵政解散惨敗のすえに

[写真]宮崎信行(左)と岡田克也さん(右)、5年前の2016年、前回の希望の党騒ぎで永田町を去り帰郷した当時の政党職員撮影。

「金儲けのうまさだけで総理総裁が決まることを知ったバブル期竹下派の国会議員」の経験と「7%投票率が上がったら、自民党の前職・刺客・除名組に票がいってしまった」2つのトラウマをかかえる岡田克也さんが「数年間の総理を選ぶ選挙だ」との独自の発信をしました。

岡田克也さんは自民党総裁選を「今回の総裁選挙は、次の総理を選ぶ選挙でもあります。総裁選の有権者の皆さんには、次の選挙の顔として誰がよいかではなく、これから数年間、日本にとって本当に大切な時期を託する人物として最も適切な人を選んでもらいたい」と語りました。ホームページなどで語りました。

枝野幸男代表が、70日以内にある第49回衆院選で政権交代できないことを前提にした発言。岡田さんは1年前の立憲民主党結党以来「次の次の衆院選で政権交代」「第49回衆院選後で、第26回参院選前に国民民主党と合併する」と、枝野さんとは違う見通しを示し続けています。

岡田さんは「第一に、メディアには公平な報道を求めます。総裁選挙に集中した報道は、野党を埋没させることになりかねません。直後に解散・総選挙があることが決まっていることを考え、バランスの取れた報道を強く求めたいと思います。」と語りました。

2005年に、小泉純一郎首相・片山さつきさんら率いる自民党と、野田聖子さん・亀井静香さんらが率いる郵政造反組の「疑似二大政党対決」にワイドショーが席巻され、7ポイント投票率が上がり、それがすべて自民党の公認・刺客・除名組に行き、野田さんらが復党。小選挙区制を悪用した小泉政治で今日まで自民党の力となっています。岡田さんは当時党代表として責任を一身に背負いました。岡田さんは正直しゃべるのは小泉さんより下手ですが、でも、岸田文雄さんよりうまいと思います。

この後、筆者・宮崎信行は2007年前半から政治ジャーナリストとしての取材活動を再開。学生時代に「新生党」の学生部の財務担当幹事をつとめたことから、当時の小沢一郎代表、羽田孜最高顧問と懇意でしたが、党本部中堅職員(3名程度)と新生党秘書会青年部(佐藤公治さんら)と新生党学生塾が一体的に運用されていたこともあり、当時の関係から、岡田克也事務所との交流を再開。小沢さん、羽田さんとの対立があった際には、常に岡田さん側にたったこともあり、一貫して岡田さんの庇護のもとにフリーランス政治ジャーナリストの活動を全く間断なく続けています。

岡田さんは実は初当選は自民党公認。岡田さんは祖父・父・兄が全員早稲田大学商学部卒業で、岡田屋・3社合同の「ジャスコ・イオン」の社長を経験。父への反発で、「漠然と公の仕事」をめざし、法学部進学をめざし、学費を出してもらうため、東京大学の法学部に現役合格しました。その後、父の家業の監督官庁である通産省と祖母の社会貢献団体の監督官庁である厚生省に内定をもらい、通産省へ。政治家を馬鹿にしていましたが、心境の変化があり、三重の山本幸雄衆議院議員の高齢による引退後の候補者を探していた竹下登元首相(岡田さんの父の早稲田大学商学部の先輩)のスカウトで立候補し、自民党公認で初当選しました。なお、四日市市は30万人で、小選挙区1個分の人口がありますが、民選議会設立による選挙が始まってちょうど100年目で1人目の四日市出身の国会議員となりました。やはり、あまり国会議員が身近でない土地柄だったようで、東大法学部以降初めて立法に興味を持ちだしたものの、官僚として政治家を馬鹿にしていた側面もあったようです。

しかし、竹下派で先輩議員にカラオケに連れられていくと、バックバンド付きのカラオケ、バンド付きだと「カラ」でないと思いますが、「金儲けのうまさだけで決まる、自民党総裁・日本首相選挙」を目の当たりにしてしまい、新生党結党に参画。政務官、副大臣の経験はいっさいなく外務大臣として政府の役所につくまで19年が必要でした。

政権交代がある政治をめざして、2009年には「だめになればまた政権交代する。当たり前の政治を日本に根付かせる」と語り、1期での下野を暗示したような演説をしていました。

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